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 チュンファは斬首に耐え切れなかった。目の前の死への恐ろしさもあったが、今は、侮蔑されきった視線の中で首をはねられる事が恐ろしく不快でたまらなかった。夫は王の反逆をもくろんでいた。もくろむだけならいいが、実行してしまった。捕らえられて拷問にかけられた夫は王の后が欲しいがために反逆をもくろんだと自白した。これはチュンファにとって耐えられない侮辱であった。
 夜明け前、城からの呼び出しを食らう前に、チュンファは慣れ親しんだ侍女と共に屋敷を抜け出した。どこへ逃げればいいのか分からないが、匿ってくれる親戚もあることだろう。チュンファは有力貴族の娘であった。
年をとったとはいえ、三十に手が届くか届かないかの年頃である。色は白く、眉はきりりとして意志が強そうだが、濃い二重の瞳はどこか涼しげな色を称えている。冷たそうな美人だと人はいうだろう。実際にそう言われてきた。ならとことんまで冷たい女になってやろうと決めたのが十五のとき、今の夫に金と権力で言い寄られたのが十七の女ざかりである。
恋などしたことがなかった。チュンファは冷たい女なのだ。夫との結婚も策略の一つでしかなかった。チュンファの親戚は結婚でさらに財を築き、チュンファも妻としてだけ夫に連れ添った。


さて、親戚の一つの回ったチュンファだが、その答えは冷たいものであった。
「お前を匿ってくれるものは、この一族にはいないからね」
 目の前で下働きの女に扉を閉められ、チュンファの自尊心は傷ついた。信じていたのに平手打ちを食わされたのだ。改めて自分を冷たくしていたものは何だろうと気づいた。
 血なのだ。財を築くためには何かを平気で斬り捨てられる冷酷な血。
 道を急いでふと気づくと、侍女の姿が見当たらない。さては裏切られたかと歯噛みしたところへ、太い男の手が伸びてきた。
「どこへ行きなさるんだい?」
 身なりからして真っ当な人間でないことは分かった。盗賊くずれだろうか? 悲鳴を上げようとする口をもう片方の手で塞がれた。
「悪いようにはしない。あんた、チュンファだろう? スンヒの妻のチュンファ。国賊には行き場がねぇ。助けも来ねえよ」
 激しい怒りと悔しさで涙を滲ませる内に、盗賊の手が自分の片腕を締め上げた。夫の罪のおかげで自分は居場所さえ無くし、頼みの親戚は容赦なく斬り捨てる。早くに父と母を亡くした意固地の性格がかえって裏目に出た。盗賊の足を蹴りつけると、チュンファは走り出した。その足を誰かにつかまれ、転んだ。見ると盗賊が足を押さえながら、片手でチュンファをつかんでいる。
「甘くしたらこのアマ、許さん! 引き裂いてやる」
 抜き身の剣がぎらついた。ここまでかと思ったときに今までの思い出が駆け巡った。父と母を亡くしてから自分は意固地になりすぎた。だが、そんな後悔もすでに遅かった。


 血がばさっと降りかかった。気持ち悪さに悲鳴を上げると、盗賊の体が地面にどぅと倒れ伏した。見ると血かと思ったのは赤い衣で、すっぽりとチュンファを包んでしまっている。目の前ににやついた男の姿があった。思わず身が固くなる。男はふわふわと漂うように歩くと、チュンファに近づいて気さくに肩を叩いてきた。
「いやぁ、さすがスンヒの旦那の奥方。強気だねぇ」
 そしてチュンファから赤い衣を引き剥がすと、自分の肩にかけてにこりとした。
 どうにも遊び人らしい。柳とした身なりに、どこか気品のある顔立ち。青年、それもチュンファより若い。
 この男が相手なら自分でもうまく逃げおおせることが出来るだろう。チュンファが駆け出すと男も追ってきた。一瞬、恐ろしさが蘇った。都の追っ手だろうか? それに自分の身元は知られてしまっている。
 男は追いつくと、息もきらさず早口でまくしたてた。
「まあそう慌てなさんな。俺は朱雀。あんたの旦那と謀反を計画していた三兄弟の一人よ」
 味方かもしれないと分かって、チュンファの体から急速に力が抜けていった。朱雀はチュンファの顔をまじまじと見て口笛を吹く。
「いやあ、こうして間近で見るといよいよあんた、美人だねぇ」
 見知らぬ男にこんな軽口を叩かれる筋合いはない。チュンファは怒りで真っ赤になった。
「怒りなさんなって。俺はあんたを助けに来たんだよ。身寄りがなくて困っているだろう。俺があんたを隣の国まで逃がしてやる。陽の国はいいぞ。さんさんと太陽が降り注ぎ、都は美しい」
 チュンファの持っていた荷物を奪い去ると背中に担ぎ、朱雀は口笛を吹きながら歩き出した。―と、チュンファに赤い衣が放られる。
「それで顔を隠してついてきな。誰もあんただって気づかないぜ」
 従うより他に道はなかった。チュンファは自尊心を傷つけられながらも、朱雀の後についていくことにした。


「あなたは兵士?」
 チュンファは務めて冷静を保ちつつ、尋ねた。朱雀は着流しを着てぶらりぶらぁりと歩いていたからである。
「兵士でないねぇ」
「それでは策士?」
「策士でないねぇ」
 チュンファは不思議そうな顔をした。
「なら、何をもって謀反を企んでいたの?」
「兄貴が従うからさ」
 それ以上、この事を聞くのはやめにした。チュンファは黙って歩き続けた。だが、歩きなれていない者に長旅はつらい。足に肉刺が出来たらしい。歩く度に痛い思いをする。そんなチュンファを気遣ってか、朱雀はときどき休憩を入れてくれた。休憩を入れるときはいつも竹筒を持って清流を探しに出かけ、熱を持った足にかけてくれるのである。


 いつだかは、なかなか清流が見つからないのか朱雀がなかなか帰って来ないことがあった。そんなとき、一人残されたチュンファは衣を握りしめながら「見捨てられたんじゃない」と言い聞かせるのだ。
 逃亡には足手惑いの上に、夫はすでに捕らえられている。チュンファを助ける義理も、夫自身が仲間の名を売ったとなれば、ない。歩きながらチュンファは、何故この青年は自分を助けてくれるのか不思議に思っていた。思っていたけれど意固地な性格がじゃまをして聞き出せなかった。それに恐ろしい答えが待っていそうで聞くのが怖かったのだ。今は助かる道だと信じたい。
 郡境まで差し掛かったときである。目の前にちらちらと揺れる光が現れた。
「あれは何?」
 チュンファは朱雀の袖を引いて尋ねた。
「あれはどう見ても王の追っ手ですぜ」
 朱雀は飄々と言ってのける。
「どうするの?」
「俺がひとっ走り行って片付けてきまさぁ」
 言うなり朱雀の姿は林の奥に消えていった。チュンファはたまらなく心細くなった。盗賊に襲われた記憶が蘇る。しばらくして朱雀がぶらりと現れた。ちらちら揺れていた光はどこかへ去っている。
「何をしたの?」
「何かをでさぁ」
「あなたは何者?」
「さぁ、見たとおり人でしょうが」
 どうもうまくかわされてしまう。二人で歩く内にチュンファに怒りがこみ上げてきた。置き去りにされた恨みもあるのかもしれない。


 ずっと気になっていたのだが、朱雀の背中に鶏の羽根のようなものが一本くっついている。それは二本に増えたり、減ったりしたが、この男、どうも鳥を使っているようだ。
 チュンファがそっと駆け寄って羽根をとろうとしたとき、ふいに朱雀が振り返った。
「そうそう、向こうに着いたら俺の兄貴の嫁になって下さい。二番目のね。それが目的で助け出したんですから」
 チュンファはかっとなった。
「どんな身分の卑しい男? あなたの兄弟ならさぞかし人を欺くのが上手でしょうね」
 朱雀は動じない。
「いやいや、それは純朴な男なんです。ちと、乱暴ですがね。ま、会ってみれば分かりますよ。けして悪い男じゃない」
 断ると言ったら置き去りにされるのだろうか、チュンファの不安は言葉と裏腹に出た。
「私は自分と同じ階級の者としか付き合いません」
 朱雀はじっとチュンファを見ていた。上から下までじっと。それからおもむろにため息をついた。
「さみしいねぇ。そんな冷たいことを言われては」
「私はスンヒの妻です」
 この言葉は癖のようになっていた。だが、今となっては災いを呼ぶだけだ。
「そんなら助けなければ良かったなぁ」
 一瞬どきりとなったが、朱雀はからから笑っていた。
「嘘ですよ。さあ行きましょう」
 チュンファは駆け寄って朱雀の背中の羽根をとった。朱雀は背中を向けたままぴくりとなる。チュンファの手の平の中で羽根は虹色にも朱色にも輝いているようであった。
 やがて羽根の輝きは失せ、ただの真っ白な羽根に戻った。
「あなたは鳥使い?」
 朱雀は背中を向けたまま答えた。
「ご想像にお任せします」
 そしてぶらりぶらりと歩いていってしまった。


 国境に差し掛かった途端、朱雀の目の色が変わった。前の方を大群が歩いている。チュンファは驚き焦ったが、
「兄貴達だ!」
 朱雀の声で我に返った。
 すでに辺りは暗く、大群は一塊の山のように黙々と移動を続けている。チュンファは朱雀の袖を握りしめた。恐ろしかったのだ。
「あの人達は味方ですぜ。ああ良かった。あんたを兄貴に預けて帰れる。あの中にきっとケンロウの兄貴がいます」
 チュンファに言い知れない不安が戻ってきた。どんな男だろう? 顔も素性も知れない男よりは、旅を続けた朱雀と一緒にいた方がいい。
「竹筒に水を汲んできます」
 チュンファの手が朱雀の袖を引いて引き止めていた。
「何か?」
 チュンファははっとなって手を引っ込めた。心細いとは口に出来ない性格なのだ。言うだけで随分楽になったかもしれない。気遣いの上手い朱雀は、しばらくは一緒にいてくれただろうし、もしかしたら水を汲むのを止めてくれたかもしれない。
「あなたは水を汲むといって留守にするけれど、一体何をしているの?」
 朱雀はからから笑った。
「清流がそんなにすぐに見つかるものじゃありません。さあ喉が渇いたでしょう」
「いいえ」
 朱雀は困ったような顔をしてから、すぐに元の気楽な顔に戻った。
「では、先にケンロウの兄貴に紹介しますぜ」
「いいえ。やはり水を汲んできてもらいたいの」
「はい」
 朱雀は駆け去った。長い時間が経ったが帰ってこない。チュンファは衣をぎゅっと握りしめた。
 ―とにわかに辺りが明るくなって、近くの関所が火事だとの騒ぎを聞きつけた。走ってみると、建物が赤々と燃えさかっている。チュンファはうろたえながら、あの中に朱雀がいないことを祈った。
 だが見てしまったのだ。朱雀が重い甲冑をつけて関所を走り回っている姿を。甲冑はなめし皮ではない。鉄製である。あの華奢な男のどこにあんな力があるのだという位、走り、跳び回っている。その顔は嬉々とした笑みに満ちていた。
(彼が火付けを?)
 チュンファは怖くなって逃げ出した。林の中で身を隠して震えている内に夜が明けた。約束の場所ではないと疑われるかもしれない。迷ったが、チュンファは疑われないよう約束の場所に急いだ。


 気まずかった。朱雀が先に来ていたのだ。着流しを着て、竹筒の出納を手にしている。
 おそるおそるチュンファは言った。
「ねぇ、私偶然見つけた清流のところで耳に付けた玉を落としてしまったのよ。探してきてくれるかしら?」
「はいはい」
 朱雀は笑っていた。笑っている顔が不気味に思えた。もしかしたら飛び込んだ先は地獄かもしれない。玉の片方は外してチュンファの手の中にある。探すのに時間がかかるだろう。朱雀が林の奥に消えていくのを見計らって、チュンファは逃げ出した。
 そのときにチュンファは見てしまったのだ。林の奥から朱雀が飛び立つのを。重い甲冑姿で背には翼が生えていた。昨日は暗くてよく見えなかったのだ。
 ――物の怪だった!――
 チュンファの足が速くなる。騙されている内に少しでも時間を稼がないと。どんどん速くなる。
 関所の前までたどり着いたとき、昨日の火事は嘘のように、建物がきれいなまま立っていた。
 ――ここを越えなければ陽の国まで行けない――
 関所の見張り達は死んだようにうずくまっている。その隙を狙ってチュンファは走り出した。声がかかったが、気にかけている暇もない。―と、役所の入り口は開いていたが、出口は硬く閉ざされている。カンヌキを必死で引き抜こうとするが、女の手ではうまくいかない。そうこうする内に見張り達が追いついてくる。一目見るなり、「スンヒの妻だ!」と叫んだ。
 チュンファは捕らえられて役人の前に突き出された。
「王は奥方を随分探していましたよ」
 役人が舐めるように見回す。チュンファは顔を伏せた。
「こんな男……」
 顔を見せるのが悔しいのだ。
 そのまま縄に繋がれ、籠に載せられた。天へ行った夫が手招きしているのかもしれない。


 随分時間が経った。化け物の手に落ちるのと処刑されるのでは、どちらが良い運命だろう。そんなことを考えている内にチュンファは気分が悪くなった。気を失っていたらしい。ふと外を吹き付ける熱風で目を覚ました。
「蒸し焼きにするつもり?」
 殺される! と思った。だが、頭上から聞きなれた声がする。
「耳飾りは見つかりませんでしたぜ」
 朱雀だ。チュンファは顔色を無くした。籠が開けられ、朱雀が立っている。震えだしたチュンファの手から握りしめていた耳飾りが転がり出た。
「化け物!」
 走ろうともがくが、腰がぬけて立てなくなった。そんな姿を見て、朱雀はむっとした顔でチュンファを担ぎ上げた。
 そのまま林を抜けて関所にまでやって来る。
「さてどうするか」
 朱雀が一人ごちた。
「奥方のおかげで関所越えが難しくなりましたぜ」
 見張りは何があろうとここを動かないといった顔で、入り口を守っている。
 朱雀は離れた林にチュンファを下ろして怖い顔で睨み付けた。
「俺が化け物だろうが、助かりたかったらこれから俺の言うことを聞くんだ!」
 態度の急な変わりようにチュンファは震えた。やはり騙されていた。
「いいか。俺には羽根がある。あんたが逃げようとどこまでも追いついて食い殺せる。いいか、関所に一人で行くんだ!」
 関所に! チュンファの目の前が暗くなった。朱雀は腕を組んでチュンファを見下ろしている。いかなくては今すぐ殺される。
 おそるおそる足が関所に向う。騙されているのではないだろうか? 
でも助かる道はない。ならば、行動してみるしかないだろう。震えながらチュンファは一歩ずつ進んだ。


 見ると、チュンファがそこに立っている。どう見ても自分だ。もう一人のチュンファは抵抗もせずに捕らえられて地面に乱暴に転がされた。そこへチュンファが駆け寄るが、見張り達は気にも留めない。不思議に思って顔を撫でると、自分でない。
「手形はあるのか?」
 チュンファは首を振った。身につけていた赤い衣がふわりと揺れた。
「それならば通れないな」
 すると、もう一人のチュンファがするりと抜け出て逃げ出した。
「追いかけろ!」
 見張り達はもう一人のチュンファを追っていく。本物のチュンファは怯えながら関所の門を潜り抜けた。役人たちが建物から睨んでいる気がしてならない。だが、不思議なことに関所はしんと静まり返っていた。チュンファはそっと出口に近寄ると、そろそろとカンヌキを外しにかかった。重い。手がぼろぼろになりそうだ。それでもこれを抜かなければ殺されるという思いから、手の先を真っ赤にしてようやく外せた。―と、見張り達が戻ってきた。
「何をしている!」
 チュンファは扉に体当たりした。開いた。薄く開いた隙間から身を躍らせて外に出る。あと少しで陽の国だ。
 走るだけ走った。これで自由の身だ。朱雀とも役人達とも。重苦しい鎖がやっと外れたかのようにチュンファは心躍らせた。


 ふ、と朱雀の行方が気になった。後をつけてきてはいやしないか。もしかしたら、との思いが期待となって鼓動を早くした。
 やって来たのはチュンファだった。その場で揺らいで朱雀に戻る。チュンファはあっと言い口元を覆った。身代りになって逃がしてくれたのだ。頭を殴られたのだろう。額が割れて血の筋が顔を伝っていた。
「朱雀!」
 駆け寄って袖で額を拭う。軽く目を閉じていた朱雀は、月のような色の瞳を開けた。
 チュンファの心に温かいものがこみ上げてきて、何度も何度も額を拭った。頬を熱いものが伝う。気がつかない内に泣いていたのだ。朱雀に背中を撫でられながら、今まで自分を本当に気遣ったものはいなかったと口に漏らした。夫も親戚も侍女達さえも。
 手が取られた。チュンファは朱雀を覗き見る。朱雀は言いにくそうに視線を泳がしていたが、ふと言った。
「化け物は嫌いですかい?」
 あのやさしい朱雀であった。
 朱雀は笑っていた。口元だけ笑ってはいたが、目だけはさびしそうな色を称えている。チュンファは何と答えていいか迷った。「嫌いではない」そんな言葉を出そうとした瞬間、
「ええ」
 と答えてしまっていた。
チュンファは意固地な自分に気づいた。だが、すでに遅かった。朱雀はつと放れ、頭をかきながら先に行ってしまった。
見上げた空は茜色に染まっていた。