俺がこの家に迎えられて十年目になる。
 待遇は上々。日当たりのいいサンルームのソファに横たわりながら欠伸を一つ。嫌いな掃除機は、俺のいるうちは遠慮して使われない。この家の者達は皆、俺が好きでたまらない。ふさふさした長い毛や水晶のように青く透き通った目、ピンクの肉球。全てが作り物のように美しく出来ているからだ。

 ちらりと目をやると、ママがにっこり笑ってブラシを手にしている。サンルームのソファは午後の日差しを浴びてぽかぽかである。ママはブラシを入れながら俺の名前を甘ったるい声で呼んで、時折喉を撫でてくれる。


 ママというのは俺の世話役である。俺は気に入った者しか世話役に命じない。以前、俺の世話役を買って出た奥さんという人は、見栄っ張りのくせにたいした飯もくれず、俺を四六時中撫で回した。いい迷惑だと顔に思い切り爪をたててやったら、悲鳴を上げて、抱いていた俺をふり落とした。十点満点で着地した俺は、そのまま町を駆け抜け、角を曲がった。

 子猫の頃だった。のんびりと空を見上げながら、世界はなんて美しいのだろうとしっぽを揺らしている俺に、話しかけた者がいた。
 片耳のキジトラである。細く鋭い瞳をこちらに向けながら、ゴミバケツの上に寝そべってこう言った。
「おい、お坊ちゃん。お前はどこの生まれだい?」
「父の名前はブルースト。母はフルール。先祖はペルシャの生まれだ。生まれた家庭はノヤマ」
「そんな事聞いてるんじゃねぇよ。生まれた場所を聞いているんだ」
 キジトラはせせら笑った。
「場所はノヤマハウスだ」
「ふぅん」
 キジトラはきちんと座り、こちらを睨んだ。
「俺と同じように座ってご覧」
 俺が同じようにお行儀よく座ると、たちまちキジトラはけたたましい笑い声を上げた。
「そうか。あんたはペルシャの外国猫だ。ほら見ろ! 前足の間が広がっている! ペルシャってのは、がに股なんだ」
 俺はちっとも恥ずかしいとは思わなかった。母親も父親も兄弟達でさえ、俺と同じように座り込み、優雅なしっぽを体に巻き込んだものだ。
「そちらこそ優雅なしっぽを持っていないじゃないか。ひょろ長くてみっともない。おまけに先っぽが、かぎ爪のように曲がっている」
「ふん!」
 キジトラは鼻から荒い息を吐いた。
「俺は海賊フックでね。この曲がったしっぽのおかげで、悪者達の間では一目置かれている」
「高貴な者は裏町の者達とは付き合わないね」
 フックは鼻を鳴らした。
「いいか、よく聞けお坊ちゃん。裏町でリードも首輪もつけずにいるってことは、野良の証拠なんだぜ」
「野良とは何だ? いるのは見下げた者と高貴な者だけだ」
 フックはゴミバケツからぴょんと飛び降りると、俺の前までやってきて匂いを嗅いだ。
フックからは生ごみの臭いが漂う。俺は顔をしかめた。
「お前、臭いぞ。香水の臭いがぷんぷんしてやがる」
「奥さんが臭いから、臭いが移ったんだろう」
「生ごみで消しな。そっちの臭いの方がマシだから」
「断るね。臭いが消えるまで辺りを漂うとするよ」
 フックはちょこちょこと前を歩いて、俺に振り返った。
「ついて来るのか? それとも一人で雨に濡れるか?」
「もちろん、ついていくさ」
 このときにはもう、俺はフックに心を許していた。
 フックには色々な事を教わった。エサの漁り方、雨のしのぎ方。乱暴な人間から身を
守る方法。裏町に出るまで、俺は雨が冷たくて体にはりつくとなかなか取れないことを初めて知った。
「いいかい。体を丸めて乾いたところでじっとしているんだ。空が晴れるまで。晴れたら日当たりのいい場所で体を横に伸ばしてよく乾かす。そうすりゃ、ほかほかの温かい体に戻れるんだ」
長い毛のせいで毛のなかなか乾かない俺を見て、フックは笑い転げた。しばらくしてじっとこちらを見る目にはまるで悪気がない。俺も笑った。寒気が吹き飛んだ気がした。
「冬の雨には気をつけな。それと風だ。雨と風にさらされて死んでいった者達を俺は知っている」
 

 フックについてごみディナーの最中だった。ふらりと体の大きな黒猫がやってきた。こちらを射抜く緑の目は「そこを退け」と語っていた。
「おやロック。お前もディナーか?」
 フックは退かずにのん気にごみバケツを漁っている。
 ロックの様子が変わった。目をまん丸にしてしっぽを下げ、俺に近づく。嫌な予感がした。鼻に一撃、強烈なパンチをくらった後で、目を回している俺の前にフックが立ちはだかっていることに気づいた。
フックは唸った。
「いきなり何しやがる!」
 ロックは傲慢に言い放った。
「俺のテリトリーでは見知らぬ猫は相手にしない。そいつは俺の特等席で食事をしていた」
 フックはちらりと俺を見る。俺はごみバケツから退いた。退いた俺の目の前でロックは、捨てられたもも肉の一番おいしい部分と、しなびた特上のマグロをがぶがぶやって、口をひとなめしてから帰っていった。


「ロックとは因縁のある仲でね」
 その夜、丸くなった俺を抱きかかえるように横たわりながらフックが呟いた。路地裏の隅で、地面はなかなか暖かくならない。それでも背中はフックの毛並みで温かい。落ち着いた俺は喉を鳴らした。
「昔、息子を殺されたのさ」
 フックの語るところによると、毛並みも美しい白いペルシャ嬢と窓ごとの挨拶を交わしていた。相手はフックを覚えていてくれて、脱走の度にフックと戯れていたらしい。
 その姿をロックが暗い目で見つめていた。
「ある日、ずっと出てこなかったあいつが沈んでいたのさ。窓ごしに尋ねると生んだ子供達を捨てられたという。ひどい話じゃないか、名のある猫の子供じゃないからいらないってさ」
 俺は自分の中にあった高貴さの自信を吹き散らされた気がした。
「それでどうなったの?」
 フックはふぅと大きなため息をつく。
「ダンボールの中に入れられた子供達はほとんどが死んでいた。二匹だけ生きていたが、片方は夜明けを待たずに天に召された。一匹だけ、大きな鳴き声を上げ続けているのがいてね。知り合いのメスに頼んで育ててもらったよ」
 フックはうつらうつらしていた。俺は前足で揺さぶり起こす。
「それで、それで、その子はどうなったの?」
「ああ。俺について歩くようになった。こうやって一緒に眠ったりもした。狩も教えた。あいつは真っ白で……」
 フックは眠ってしまった。俺はそれ以上聞くことが出来なかった。眠くなってきたのだ。
 


 よく朝、ぼろ雑巾のような姿の俺は、フックとはぐれてしまった。人間の子供が近づいてくる。くるくるした目をした女の子は俺を抱き上げてにっこり笑った。
「やめろよ」
 俺の非難の声に気をよくしたらしい。大事そうに抱えてはゆらゆら揺らしている。
「この子、目がとってもきれいだわ」
 俺は抱き上げられて連れていかれた。着いた先は人間の家。突然バスルームとやらに入れられパニックになった俺を、ママと呼ばれる人間がなだめる。バスタオルの後に恐怖のドライヤーが来た。俺はドライヤーに二発パンチをくらわせると、口ではぁはぁ呼吸をした。
「大丈夫よ」
 ママがブラシというもので俺の毛並みをすいていく。体にまとわりついていたノミが五匹落ちた。
 ここは温かい。落ち着いてきた俺は丸くなって眠りこけた。そこが、今の俺が寝そべっているサンルームのソファだった。
 奥さんに飼われていた頃よりもおいしい飯をもらった。名前をつけてもらった。俺は再び、高貴な者にふさわしい扱いを受けるようになった。
 そうして一ヶ月が過ぎた晩のこと。
 月の明るい夜だった。路地の暮らしが懐かしくなった俺は、窓から外を眺めていた。
月が照らしている明るい道にふいっとキジトラの影が横切った。
「フック!」
 俺が前足で窓をガタガタ鳴らしていることに気づいたのだろう。フックはこちらに来て、窓枠に跳び上がった。
「探したぞ!」
 フックの毛並みは整えていないようで、ボロボロに擦り切れていた。
「ごめん。フック。俺は貴族の生活に戻ることにしたよ」
「何だと!」
 フックが喉の奥で唸り声を発する。俺は身を縮めた。やがてフックは家の中を覗き込み、目を逸らした。
「……何でもない」
 フックは窓枠から跳び下りると、通りの角を曲がっていなくなってしまった。
「フック!」
 俺は窓をガタガタ鳴らした。ふと見ると、鍵をかけていなかったようで、ほんの少しだけ隙間が開いた。ガタガタ鳴らしている内に隙間が大きくなった。俺は前足を突っ込んで隙間を広げると、頭でぐいぐい押して、ついに外に出ることに成功した。
「フック!」
 フックの曲がった角をかけていくが、どこにも姿はない。変わりにロックが待ち構えていた。
「探したぞ、フックの息子」
その目は狂気に溢れていて、俺と本物の息子の区別がつかないようだった。体当たりに吹き飛ばされて、喉元に前足をかけられた。牙が襲い掛かる。
ずんっという鈍い音がした。フックがロックに横倒しを食らわせ、爪で襲い掛かる。ロックは唸り声を発しながら立ち向かう。夜の街に二匹の影が舞った。
しばらく爪と牙の押収が続き、勝どきを上げたのはフックだった。
「もう迷子になるなよ」
 フックは笑った。ぼろぼろの顔で。
「貴族は貴族の生活に戻りな」
「フック! 俺あんたについていくよ!」
 フックは唸りながら、パンチをくれた。
「殺されてもいいのか?」
 フックが俺を殺すという意味だった。俺は耳を伏せ、通りを曲がって家に帰っていった。迷子になったと騒いでいた家の者達は、泣きながら俺を迎え入れてくれた。
 俺がこうして居心地のいい生活を続けて十年になる。フックもロックも消え、窓の外を通り過ぎていく猫達は変わっても、俺は時折路地の生活を思い出す。
 それはフックのことかも知れないし、ロックのことかも知れない。しかし、この年になってからは、同じように懐かしい。サンルームに横たわりながら、貴族の血を誇らしく思い、路地裏の猫たちも同じように誇らしく思って。